BOHIRO

Bohiro(ぼひろ、中国名「呆博」1975年8月22日 - )は、日本コメディアンピアニカ調律師である。「世界貿易集団(上海)」(現在は清算・解体)の元代表取締役社長最高経営責任者|CEOハワイ州オアフ島出身。血液型AB型。愛称は、鬼軍曹

来歴

生い立ち

1975年、父は日系三世で州警察署長、母は日本人で専業主婦の家庭に生まれる。父親の借金が原因で中学生のときに両親が離婚。母方に着き日本へ帰国し、東京・神田の実家に居を移す。このとき「お金で不自由な人生は送りたくない」と決意し、実業家となることを志す。東京都立足立高等学校在学中から大学進学を目指したが現役での進学は適わず、卒業後も引き続き大学進学を目指し、アルバイトをしながら二浪生活を送る。

ピアニカ職人

その後も大学受験を繰り返したが尽く失敗し進学を断念。21歳のとき、デザイナーの叔母の紹介でピアニカの工房でピアニカ職人と出逢いそのストイックな生き様に傾倒。以後ピアニカ師の弟子となる。その後はピアニカ師としての技量を高め、多くのピアニカ奏者の楽器修理を手掛けて業界で頭角を現す。

会社設立

ピアニカ職人としての立場を確立した23歳のとき、「実業家の夢を捨てきれない」という想いから工房を退職。新宿二丁目で売り専のアルバイトで資金を作り、友人の伝手で単身上海に渡り「世界貿易有限公司(上海)」を設立。日本で鉄屑同然となった建築機械モンゴル国新疆ウイグル自治区、果てはパキスタンなどの第三世界の商社に売り捌き莫大な収益を獲ることに成功する。その後も同様の手口で日本国内のポンコツ自動車を中国国内に輸入し、商社を介さず自社で販売する自動車販売店「汽車牧場」を次々に出店して中国でのビジネスを成功させる。

多角化と事業の終焉

中国での「ポンコツビジネス」を成功させ、その後も北京で性具の輸出商社を設立するなど潤沢な資金を元手にコングロマリット化を展開。会社を「世界貿易集団」とし一大企業体の総帥となった26歳の頃、道半ばで断念した「ピアニカ師」としての自身のポテンシャルを高めようと、深?でピアニカ技術会社「音樂家鍵盤口琴服務有限公司(深?)」を設立。設立後は自らがピアニカ調律師として世界的なピアニカアーティストのバンドクルーの一員となりツアーなどに帯同し名声を獲る。この頃、自身を「芸術家と対等に渡り合う職人肌のピアニカ師」と嘯くなどしてしばしば周囲の失笑を買っていたが、これまで日陰者扱いであったピアニカ師のステータス向上のために笑い者になることを全く恐れなかった。

しかしこの頃からピアニカ技術会社の運営に傾倒している間に暴利を貪りグループ会社を潤していた建機商社などのポンコツビジネス商社が社員の手により勝手に第三者に譲渡されてしまうなどの事件が勃発、審議のたびに傍聴者が騒いで逮捕者が出るほど苛烈な法廷闘争の末に「世界貿易集団」はピアニカ技術会社以外全ての事業体を第三者に奪われてしまう。

グループ会社が無くなったことで財務基盤が脆弱になったピアニカ技術会社ではすぐに資金繰りに行き詰まりを露呈、元々安い賃金に輪をかけて遅配が始まり、次々と支配下の職人やピアニカ師が退職。最後は当人と負債だけが取り残されて事業は終焉を迎えた。

コメディアン

中国でのビジネスの失敗で、事業家としての夢に敗れて失意のまま日本に帰国、日本の金融機関から私的信用で受けた融資も焦げ付かせ、程なく自己破産に陥る。免責決定後は身内に金銭を無心しては新宿二丁目で遊び歩く毎日を送り、妻とも離婚するなど荒れ放題の毎日であったが、ひまつぶしに参加したアマチュア歌手の合同コンサートで披露したフレディ・マーキュリーのものまねが人気を博し、自身のコメディアンとしての能力に開眼。尚、このものまねは売り専ホスト時代に余興で披露していたものだった。

その後アマチュアミュージシャンの公演で知り合ったピアニカ奏者と再婚。現在は千葉市内のUR賃貸住宅の自宅に個人事務所を設立し、夫婦で芸能活動に励んでいる。尚、URにした事由として「小室哲哉のそれに習い」と自身のブログで公言している。


人物

愛称

鬼軍曹という愛称は、中国での実業家時代にろくな賃金も支払わずに激務を強い労働を搾取していた時代に従業員が呼んでいたスラングである。これらの労働搾取は、「事業で成功するためには、自分のためにタダでも働いてくれる仲間がいなきゃダメ」という中学時代に読んだナポレオン・ヒルの成功哲学に基づくものであったが、関係者には正しく理解されず、退職した従業員を「脱落者」と罵り、当時のホームページの自身の挨拶文にも

この一年間、皆様には本当にお世話になりました。素晴らしいビジネスパートナーたちに恵まれ海外事業にも着手、グローバルな人間関係の下、大いなる成果を上げることができました。それは本年度、1月に掲げた目標年商をはるかに上回る、200%もの増収増益を計上し、正に躍進した大戦の一年間となりました。社員一同、一丸となって事業に取り組んだ大いなる成果と言えるでしょう。

しかし、脱落者が多くいたことも決して忘れてはならないと考えております。この一年は、私にとっても社員たちにとっても本当に辛くきつい年でもありました。より良い商品とサービスを市場へご提供するため、日々社員たちを大声で叱責し、下請けに対しても非常に厳しい条件を提示、鬼軍曹と呼ばれながら業務を遂行いたしました。社員たちは日々涙しました。自分の不甲斐なさを悔いる涙、これまでの生活とあまりに違う環境ため力不足を感じる悔し涙、しまいには責任から逃げ出したいと涙する者、沢山の涙を見せられ、自分の行動や言動に大きく疑問を感じたこともありました。一時は何もかも嫌になりかけたこともありましたが、「俺は物事を遂行する執行者」と自分を言い聞かせ、また新たなる戦場へ向かったものです。

本日12月21日・日曜日、資産計上する社員のデスクを笑顔で見守りながら、本年度はゆっくりと暮れて行きます。 昨日パキスタンやカタールのお客様より頂いたメールで、「来年こちらへ来ることがあるようでしたら、必ず修理にきて下さい」と遠方より大変厳しいクレームも頂き、本年度がいかに幅広く、広範囲なビジネス展開を果たせたかが垣間見えます。

個人的に投資くださった皆様、心からの感謝をこの場をお借りして申し上げますと共に、今後展開される当社の急成長を楽しみにお待ちください。


と記されており、自身もこの呼称を知っていたと推察される。


虚言癖

「お金持ちになるためには自身がそういう人間なんだと念じなきゃダメ」というこれまたナポレオン・ヒルの成功哲学に中学時代から酷く傾倒していたため、自分のビジネスの成功のために様々に自身を表現しており、「オレは元・ジャニーズ」・「オレは資産家の息子」・「オレは日商岩井(現在の双日)の元・エリート社員」・「20才でニューヨークに留学してMBA取得」などと嘘をついて元妻の祖母で武蔵野地区を代表する資産家である「近藤ミツ」を信用させて金を騙し取っていた。しかし中国でポンコツビジネスが成功してしまったため、自身のステータスの維持のために常に嘘をつき続けざるを得なくなり、極度の虚言癖を持つようになる。このため、初対面の人物と逢う度に、常に経歴や職業を詐称しており、殆どの者がその詳細な経歴知ることが出来ない。また、プロモーターや芸能事務所に対し、「俺の集客力はビートルズ並み」と吹聴し、詐称だらけの公演経歴や芸暦を記した書面で相手を信用させて共演や出演契約は取り付けるものの、予め説明があったような知名度は殆ど(というより全く)無い上に、プロモーターや共演者に切符の売り捌きを頼り切っているため、共演者やプロモーターからは「芸暦詐欺師」「ノルマ泥棒」と呼ばれている。

特に「長野県のローカルタレント」という設定で長野県内で催されたイベントでは、地元メディアが大々的に協賛や宣伝を行ったにも関わらず、Bohiroをメインとして据えたイベントでは全く集客出来ず、集客出来ない理由を「共演者の責任」とBohiroが関係者に当り散らすように言い放ち、その度に担当プロデューサーやマネージャーが共演の関係者に謝罪に行くのが半ば通例化している。極めつけは、知名度と集客力を目当てにBohiroを起用した観光旅館では、売り込みに来たBohiroの元・マネージャーが経営する芸能事務所との間で賠償問題となり、法廷闘争に発展した。


銭ゲバ

自己顕示欲が極めて旺盛で、実業家時代は独善的な価値観を押し付けて従業員から労働を搾取したり、利害関係者としばしばトラブルを起こしていた。反面、打たれ弱い精神面の脆さが際立ち、常に莫大な弁護士費用を必要としており、弁護士費用だけで財産を食い潰す程のトラブルを抱えていた。

また、当然のように人望がなく、金銭に極めて汚い性格のため、当人と利害関係にある人物は一様に「銭ゲバ」・「守銭奴」・「金の亡者」と呼ぶ。


芸風

コメディアンとしての芸風は、妻のピアニカ伴奏で、著名な洋楽歌謡を「ものまね」でカバーするというスタイルが基本である。ものまねについては特にフレディ・マーキュリーやマイケル・ジャクソンが秀逸で、自身がデザインしたジャンパー(実際のデザインはボン・ジョヴィのステージ衣装に酷似)を着て登場し、中国語で「呆博!貫穿信念!!」と聴衆にコールさせ、「脱肛」をネタにしたステージトークを挟むのが恒例となっている。

また、時折「プライベート・ライヴ」と呼ばれる形式のライヴでは、聴衆からの「チンポ!チンポ!」の掛け声と共に陰茎を激しく擦りながら登場し、聴衆の面前で射精する「発射芸」を披露し、公演のアトラクションとして、男同士の「俎板ショー」を披露するなど、通常のライヴでは絶対に観られない「ハード芸」を観ることが出来る。尚、この形式のライヴでは、ほぼ全ての聴衆がゲイであることも大きな特徴である。



講演

2009年には過去の経験と失敗を基に講演業界にも進出。「小さなことに不誠実な人間は、大きなことにも不誠実」「lie and lostの法則」「成功は大きいほど失敗も大きい」などをテーマに六大学や政財界のパーティーなどで日銭15万円程度のギャランディーで講演を行っている。尚、講演で「スベッた」と感じたときはすかさず「脱肛ネタ」を繰り出し、それでもダメなときは歌い出すなどしてしまうため、「基調講演のはずが下品でテーマと無関係な芸能ショーになっている」などと依頼主からしばしばクレームを受けており、講演エージェントとの契約が常に存亡の危機にある。このため事務所社長(妻)は常にそのフォローに追われ、「出来ないのだから(講演事業からは)正直撤退して欲しい」とブログで苦境を吐露している。


その他

免責

帰国後に自己破産し免責を受けているため、個人事務所は妻が社長を務めており、当人は従業員である。尚、面積決定が2006年だった関係で2016年には再びクレジットによる取引が再開されるため「2016年の夏にはスタジオの機器をSSLの大型コンソールにババーンとグレードアップする!!」と自身のブログで宣言して関係者の間で話題となった。

ウエスタンブーツ

プロフィールで身長を詐称しているが、15cm以上高く詐称しているため逢えば簡単に嘘が発覚してしまう。このため常に15cmアップの靴(ウエスタンブーツが多い)を履いており、これを脱がなければならないシチュエーションを極度に嫌う。

メジャー拒否と音楽祭

ソニーレコードから「歌手」としてCD契約を持ちかけられたことがあり、その気になって音源を持ち込んだものの、担当者に内容をボロクソに酷評されたため交渉が決裂。以後BOWWOW人見元基の発言をなぞり「コマーシャルな世界では歌いたくない」と自身のブログで度々公言してしている。「コメディアン」として公の場で歌真似することはあっても、「歌手」としての公の場での歌唱はアマチュアの音楽祭のみに限られているのはこのためである。また、このような状況にあっても自身は「プロの歌手でもある」というマルチタレントとしてのポジションを変えておらず、「彼は歌手としてデビューしていない」「(歌手としての)検証可能性がない」と批判される元凶となっている。

尚、自身のブログで「会員制ライヴで熱唱」や「著名な音楽祭で聴衆が失禁」としばしば発言しているライヴや音楽祭とは、事務所社長(妻)のピアニカ教室の「ピアニカ発表会」や「ピアニカ吹き合い会」の余興のことを指す。また、「鍵盤の端から端までの声域を持つ」という発言は、ピアノの鍵盤(88鍵)ではなく、ピアニカの鍵盤(32鍵)のことである。

脱肛と排便

上海渡航前の売り専ホスト時代に短期間で資金を作ろうと繰り返した激しいプレイが原因で脱肛になり、「トイレで排便するのが辛い」と常にブログや講演で語っている。所属事務所の社長(妻)に再三に渡り治療(手術)するように要請されているが、「(脱肛は)ステージトークのネタであり”芸”の一部だからほっといて」と言い現在も脱肛のままである。また、脱肛が原因で本番中に大便を漏らしてしまうことを自身のブログで告白。「今日、茅野の公演中、ステージ上で(本番中に)ウンコ漏らした。一張羅のティモシー・エベレストが本番中にウンコまみれになった。客が殆ど入らなかった公演だったので大丈夫だったけど、ウンコを漏らすと大変だ」とブログで告白して以来、「排便芸人」「ウンコ芸人」と認識されている。

ピアニカ師としての活動

現在はコメディアンとしての活動に軸足を置いており、ピアニカ師としての活動は下火となっているが、現在もピアニカプロデューサーとして「ピアニカレンタル」業をこなしており、「ピアニカ吹き合い会」でコメンテーターなども務めている。また、自身が製作・監修するピアニカの販売は所属会社の基幹商品であり、ピアニカ師としてのステータス維持を社長(妻)から厳命されている。

ヨーロピアン・ヴォイス・ピアニカ

ヤマハ製ピアニカをベースに自身が設計・開発をしてチューニングを施した「ヨーロピアン・ヴォイス・ピアニカ」を所属会社が生産・販売している。鍵盤に象牙・黒檀をあしらい、価格は2009年モデルで1台210万円と法外な価格にも関わらず、医師・弁護士・実業家・政治家・社長(妻)のピアニカ教室の生徒などを主な顧客に年間50台程度を販売しており、毎年意欲的にニューモデルを発表している。

モデルチェンジは翌年のモデルが前年の春に発表され、夏頃からデリバリが始まる。2010年モデルであれば2009年の春(毎回3月中旬の発表が恒例)に発表され、同年の7月にはデリバリが開始される。2007年頃までは、例年年末には予定生産数の全量(概ね毎年50~60台)を完売する盛況ぶりであった。

2008年モデルまでは定価が毎年無意味に値上げされる「スタインウェイ方式」であったが不況下で販売が振るわず、2009年モデル(2008年のデリバリモデル)以降は価格が据え置きとなっている。また2010年のモデルからBohiro本人のハンドクラフトだった生産方式が、デリバリの迅速化を理由に杭州ヤマハ楽器で製造されたベースとなるピアニカを中国で受領し、同国でそのままNC加工と組立・塗装した後に日本に運び、象牙貼付と検品のみを日本でBohiroが行う生産方式に移行した。このため「著しいバリューの低下」を嘆く既存顧客が激増。口コミやコレクターにより支えられていた圧倒的な支持と需要が揺らいだことが販売不振の主因となっている。2010年モデルの出荷台数は明らかにされていない(例年、大晦日に完売をアナウンスしている)が、発売以来初めて完売のアナウンスがなされなかったことから「10台もセールスできなかったのではないか」と市場関係者は推測している。

これを裏付けるかのように、2010年3月にヒルトン新宿で開催された2011年モデル発表会では名称を「ヨーロピアン・ヴォイス・ピアニカ」から「コンプリート・ピアニカ」に改称。「限定15台で価格は据え置き、年内デリバリ完了を遵守」とアナウンスされた。製造工程は量産化に移行したにも関わらず、製造台数を減らして「希少性」を強調する一方、技術や意匠面での変更点が2010年モデルと比較して全く見受られないことなどから「名称を変えただけで前年モデルの売れ残りではないか?」とレセプションの際に社長(妻)が既存顧客に質問されて説明に苦慮しているところをBohiro本人が「俺が違うって言ったら違うんだよ、ヨーロピアンとは!つまらないこと言いやがって!素人は黙ってろ!バカ!氏ね!」と激しく熱り立つなどして周囲が出席者の怒号で騒然とするシーンがYoutubeに動画で流れるなど、販売はまさに曲がり角であると同時に正念場を向かえている。

フランチャイズ・ホール

2010年3月、都内某所の音楽ホールの指定管理事業者となり、同時にホールオーナーとの間で使用契約(フランチャイズ契約)とネーミング・ライツ契約を締結。自らの芸名を冠した「サウンドマイスター・Bohiroホール」が誕生した。

「ホール」という名称は便宜上の呼称で、ブログに掲載された図面によれば、広さは約60平米で設備はピアノと生明かりのみ、客席は丸椅子で60席程という質素なもので、バトンや袖などのホールとしての一般的な機能や、収録設備・照明設備などスタジオのような機能も有していないため、実態は音楽室である。

また、ホールの写真等が事務所のホームページに掲載されているが、詳細な場所やホールの仕様などは「貸出運用は行わないため一切非公開」とされており、実際にそのホールを観た者は存在しておらず、ホールオーナーのブログの写真以外は検証可能性がない。

ホール備品として外国製超高級ピアノ(メーカーは不明)をBohiroの事務所が当該のホールに納入しているが、スノコのような響板の隙間や緩いチューニングピンなど、納入当初からピアノとして機能しておらず、納入から3ヶ月で高額なオーバーホールをオーナーに強要するなどしたため、瑕疵やその是非を巡って法廷闘争に突入していることがホールオーナーのブログに記されており、現在東京地裁にオーナーが提訴している。このような状況にも関わらず、ネーミング・ライツが取り下げられていないのは「破棄事項」の契約上の不備に起因しており、オーナーの都合による取り下げには莫大な違約金が発生する契約となっているため、違約金を支払わない限り2015年まではこの名称のまま運用しなければならない。尚、契約破棄の唯一の当該事項は「契約金の不払い」のみのため、2011年以降もBohiroの所属事務所が契約金(金額は年額60万円)を払い続ける限りはどのような闘争結果となってもこの名称のままという状況が続いていた。

しかし2011年4月、東京地裁から和解勧告が出され、残契約のネーミングライツの契約金額の支払いと引き換えに物件の瑕疵を問わないという和解案を双方が受け入れて結審し、2011年5月以降は看板も取り外され、ブログやホームページの記事も全て削除された。尚、Bohiroの残契約期間の未払い金額の総額は240万円で、相当期間に渡りオーナーに支払われることとなった。尚、2011年10月以降、一般への貸出を行う旨の内容がオーナーのブログで発表されたが、「ピアノの価値を問わない子供や素人の練習への貸出のみ」とされており、ピアノ自体はその機能を回復していない状況にあると推察される。


レーベル設立とCDデビュー

一度はソニーレコードのオファーを断り「コマーシャルな世界では歌いたくない」と公言していたが、「デビューしていない」「検証可能性がない」などの批判をかわすことを目的として、インディーズレーベル「MUCK Records International.」を米国ネバダ州に自ら設立し、デビュー・シングルをリリースすることを自身のブログで発表。リリースは2011年9月21日に世界同時発売されると発表された。

尚、わざわざ米国にレコード会社を設立した理由については特に述べていないが、楽曲が全てASCAP扱いの作品のカヴァーのため、専ら楽曲の使用料対策のためと考えられる。

しかし国内のディストリビューターも決まり発売日を目前に控えた2011年7月24日、米国法人から、同社の米国での営業部門を別会社に売却(売却額は5ドル(当時の為替レートで400円)で、事実上の譲渡)し、それ以外の部門と本体を解体・清算するというニュースリリースが同社より発表された。この時点ではCDの生産はおろか、録音すら出来ていない状況での突然の法人の解体という状況に陥り、発売が危ぶまれる事態となった。自身の会社であるにも関わらず解散に至った原因として、米国現地で雇った米国人の共同経営者やプロデューサーとの間での「イデオロギー論争」がきっかけとなり、取締役会での解任動議でBohiroが役員を解任されたことが原因である。

これに対し、14.5%の株主(筆頭株主ではない)であるBohiro自身は納得しておらず、株主代表訴訟で争う構えを見せ、臨時総会開催に向けて委任状争奪戦が発生し周囲は俄にきな臭い様相を呈す事態となり、その動向が注目されていたが、Bohiro陣営は結局委任状提出期限までに4.9%の議決権を積み増しするに止まり、臨時総会においてもこの解任は可決されて闘争は終焉した。

また、この係争とは別に、自身の誕生日でもある2011年8月22日に、東京丸の内のバーチャルオフィスに「MUCK Records JAPAN」を新たに設立したと発表された。これにより、ASCAPで米国盤として取得予定だった版権を国内で取得することとなり、想定外の出費を余儀なくされたが、当初の予定どおり、2011年9月21日に、記念すべきデビューシングルが全国で発売された。これらのCDはHMVオンラインとアマゾンジャパンの専売商品で、両社のオンラインショップで誰でも購買することが可能なため、デビューを果たしただけでなく、検証可能性について疑われる事態も解消された。しかし発売後はセールスが振るわず、発売から2ヶ月で早々に廃盤となるなど、再び検証可能性が揺らぐ事態となっている。

現在、メーカーが廃盤としているため、市中の販売店からの発注は全てキャンセルとなる事態となっており、唯一の入手手段が曖昧な予告だけで開催される神出鬼没の野良興行での本人による手売りのみのため、益々そのCDの希少度が高まる事態となっている。尚、CDのセールスに関して本人は、「基本、販売店やディストリに頼らずとも手売りだけで充分な収益を得ているので、今後はクローズドでコアなファンを大切にしたい。(CDの)在庫は腰が抜ける程タップリあるので直接(事務所に)電話して10枚と言わず100枚単位で何セットでも注文して欲しい。ライヴの具体的なスケジュールは早稲田祭(早稲田大学の学園祭)以外はプロモーターの都合で今後も明かせないし明かすこともない」とブログで記している。

新レーベル設立

ASCAP扱いの楽曲の取扱を諦め、旧レーベルを廃止し、自主制作の新レーベル「Antique House Records」をフランスに設立。当初5月に配信専用コンテンツをリリースする予定であったが、制作を指揮したプロデューサーと賃金の不払いに起因するトラブルでプロデューサーが原盤の所有権を主張。この原盤権の取得を巡って元・プロデューサーを相手取りbohiroが長野地裁に提訴するも一審で敗訴し取得を断念。改めて新しいコンテンツを制作することとなった。

  • 最終更新:2016-06-26 15:10:25

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